リスク・コミュニケーションの主人公は誰なのか

関澤 純

NPO法人食品保健科学情報交流協議会理事長
関澤 純



 豊洲市場の地下水モニタリング調査で、今年になり従来とかけ離れた数値が報告され、地下水にベンゼンが環境基準の何倍検出されたなどの報道がされている。都は2001年の豊洲東京ガス工場跡地への卸売市場移転決定後に設置された土壌汚染対策専門家会議の提言に基づき、残存するきわめて高濃度の有害物質の浄化対策を実施し、昨年夏時点で表層4メートル以下の地下水汚染は当初汚染のほぼ1万分の1近いレベルまで減衰していた。土壌汚染対策法に関わる瑕疵はなかったが、移転決定当時に環境大臣だった小池現東京都知事が念のためになされた地下水モニタリング測定の完遂を主張した昨年9月に汚染対策工程の一部無断変更が判明し、「食の安全・安心」を大義名分に2ケ月後に予定された移転を急遽延期した。

 これまで都は、環境基準は行政の目標値であり規制値ではなく年間平均値で示されることをメディアに十分明確に伝えてこなかった。筆者は中央環境審議会環境保健部会の化学物質評価専門委員を20年間務め、ベンゼンの大気環境基準設定時の健康リスク評価に関わった。地下水の環境基準は、この健康リスク評価結果を元にして決められたが、地下水を毎日2リットル、70年間飲み続けたとして、発がん確率が約10万分の1上昇することを回避するとし大きく安全を担保し設定されている。採水状況などで変動するデータが、1,2度の測定で基準を超過しても健康影響の可能性はほぼ考えられない。残念ながら専門家会議メンバーは公開の報告会以外の場での外部説明を規制された中、知事自らが説明抜きで事前に情報をリークし、一見「情報公開」しているように見えつつ実際は都民や現場関係者の不安と不信を招いている。都からは必要で適切な説明がされず、一人歩きする数値データと「犯人捜し」に人々は振り回されている。

 筆者は20年前に当時の環境庁が日本化学会に委託した「化学物質のリスクコミュニケーション手法検討調査」において、2002年の土壌汚染対策法制定の背景となり、有害物質埋立地転用に関し「汚染者負担原則」をきわめて厳格に明記し画期的とされた米国のスーパーファンド法について調べた。この法律の関連で「緊急時計画と地域住民の知る権利法」という法律があり、地域住民は有害物質関連の事故によるリスクの科学的推定を知らされ、自治体の支援を受け具体的な対策に参加できる。保健省の公衆衛生研究機関である有害物質・疾病登録庁(Agency for Toxic Substances and Disease Registry: ATSDR)は、公衆向けに理解しやすい有害物質解説(Toxicological Profile)を作成し、保健所職員らによる住民への説明を支援する。さらに地域の拠点に地域助言グループ(Community Advisory Group)を設け、地域内や自治体また環境保護庁 (Environmental Protection Agency: EPA)との間の情報交換を助け住民を支援する仕組みが制度化されていること、などを調べ報告した。1999年にわが国の環境庁と通産省による汚染物質排出移動届出制度(Pollutant Release and Transfer Register: PRTR)が発足したが、事故時のリスク推定を含む地域住民の知る権利は法制化されなかった。これ以前に筆者らは、リスク情報の周知と活用における関係者間の協力のあり方を示したNational Research Councilの報告 "Improving Risk Communication"(1989)を『リスク・コミュニケーションー前進への提言』(1997:写真)として監訳・出版し、社会の意思決定は関係者間の信頼構築を元にして推進すべきであると提言した。地域住民の安全に関わる施策は政策責任者と、リスクを負う可能性を持つ関係者との間の理解と信頼があって初めて十分に機能しうる。福島原発の事故においては、リスクの科学的な推定の周知と事故時の対策が等閑視されていたため、人為的に深刻な事態を招いた。この考えを元に、筆者はNHKの「東日本大震災証言プロジェクト」の編集責任の経験を持つ方と協力し、「防災未来アーカイブ研究会」(代表:御厨貴東大名誉教授)の一員として、福島原発事故被災者NPO他の協力を得て住民の声を直接聞き、ビデオとしてアーカイブし、自らが主人公として考え協力して生活を再建する一助に活用できるツールを開発しつつある。

 ここで記したようにリスク・コミュニケーションの主役は、住民、消費者や現場の当事者であり、行政・政治家、専門家らは政策の決定と執行に際し十分説明責任を果たし、共に適切な解決策を探ることが求められる。築地市場の豊洲移転問題でも、関係者の意見と不安に真剣に耳を傾け、現場で実際の安全確保にあたる職員を信頼し、永年の伝統を担ってきた市場関係者が安心して働ける具体策を提示し、都民の安心につなげる解決を目指すべきである。