毒性評価の現場からリスク・コミュニケーションを考える

青山博昭

一般財団法人残留農薬研究所 業務執行理事・毒性部長
青山 博昭



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 実験動物を用いて農薬やその他の化合物の毒性評価に取り組んでいる私たちには、多くの市民が農産物の安全性に漠然とした不安を抱いているとの指摘を受けたり、無農薬栽培された野菜が生産コストを度外視して称賛されているとの情報に接したりする度に、何故そのようなことになるのかとの疑問が湧く。しかし、食品安全委員会が実施したアンケート調査によれば、毒性やリスク評価の専門家の大多数が残留農薬や食品添加物の発がんリスクを「ほとんど無視できる」と判断している(科学的コンセンサスが得られている)のに対し、一般市民の多くはこれらの物質(農薬や食品添加物)に加齢や飲酒等の要因と同等もしくはそれ以上のリスクがあると誤解している(図1)ところをみると、毒性やリスク評価の専門家とメディアや一般市民との間で適切なコミュニケーションが取られていないことは事実であろう。恐らく、毒性やリスクの評価についてはその内容が極めて専門性に富むため、メディアや一般市民は食の安全を守るために専門家が何をしているのかを深く理解しないまま(あるいは、十分に理解できないこと自体に)、漠然とした不安を抱えているものと推測される。
 考えてみれば、国産ジェット旅客機の開発者たちが当局の認可を受けるために何を苦労しているかも、某自動車会社のCEOらが逮捕された事件についても、私にはそれらの根本的なところが良く分からない。しかし、これは特に驚くことでもなく、極めて専門性の高い領域の事象については、万人が専門家と同等の知識を持ち得る訳ではないのは当然のことである。食の安全についても同様で、農薬の毒性評価やその結果に基づくリスク評価の詳細を知ることには多くのメリットがあろうが、それらは消費者が安全な農産物を入手するために必須のものではない。なぜなら、我が国では食品安全委員会(内閣府)が最新の科学に基づいて農薬やその他の食品汚染物質のリスクを厳格に評価し、それらのリスクはリスク管理機関(厚生労働省)が責任を持って適正に管理しているからである。
 それでもある特定の農薬に関してそれらの安全性に疑問が生じた場合は、食品安全委員会のホームページ(http://www.fsc.go.jp/)からリスク評価結果の詳細をダウンロードして(ホームページにある「ハザード情報」をクリックすれば、評価を受けた化合物ごとに「食品健康影響評価書」が公開されている)、その内容を精査されることをお勧めする。疑問が解消しない場合は、ホームページから当該評価書作成時の議事録を入手して、議論を確認することもできる。
 入手可能なこれらの資料を読み解き、リスク評価やリスク管理の実態を知るためには、それなりの知識が要求される。しかし、以下に示す大原則を知っていれば、それらは概ね理解できると思われるので、是非とも基礎知識として覚えておいていただきたい。

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  1. 食用作物に使用する農薬を販売しようとする者は、国の認可を受けるため、十分な数の実験動物を用いて図2に示すような一連の毒性試験を実施し、そのデータを提出しなければならない。
  2. 毒性試験では、実際にヒトが暴露されると推測される量より遥かに高い用量(数万倍から数百万倍)の農薬を実験動物に投与して、どのような毒性があるかが徹底的に調べられる。一般市民が農作物を経由して摂取する農薬の量は、毒性試験で調べられた量より遥かに少ないので、わずかな量の農薬を摂取したからといって大量の農薬を投与された動物に現れた毒性と同様の悪影響が現れると誤解してはならない。
  3. 遺伝子(DNA)に直接作用して塩基配列を変化させ(このような作用を「遺伝子障害性」と言う)、これが原因で実験動物に悪性腫瘍(がん)を誘発することが確認できた化合物は、暴露(摂取量)をゼロにしない限りは低いながらも一定の確率でヒトにがんを発生させる可能性があると推定して、農薬としての使用を認めない。
  4. 遺伝子障害性に基づく発がん性以外の毒性に関しては、どのような毒性であれ、ある一定の用量(摂取量)以下ではそのような影響は現れないと判断する。実験動物を用いた毒性試験で「如何なる毒性も出現しない」ことが確認された用量を、無毒性量(No Observed Adverse Effect Level, NOAEL)と言う。毒性の強弱を表すこの値は、「1日に体重1 kg当たり何mg摂取したか」で表すので、単位は「mg/kg体重/日」である。
  5. 農薬のリスク評価に当たっては、様々な毒性試験で得られたNOAEL(mg/kg体重/日)のうちの最も低い値にさらに安全を見越して一定の値(安全係数、通常は1/100)を乗じて、ヒトに対する1日当たりの許容摂取量(Acceptable Dairy Intake, ADI)を設定する。
  6. リスク管理機関は、作物ごとに許容される残留量の上限値(Maximum Residue Level, MRL)を定め、ヒトがこれらの作物を食べることにより摂取する農薬の総量が決してADIを上回らないように管理する。