福島原発のトリチウムを含む処理水
~海洋放出のリスクはどの程度?~

[2020年10月25日日曜日]

 "リスクの伝道師"SFSSの山崎です。毎回、本ブログではリスクコミュニケーション(リスコミ)のあり方を議論しておりますが、今月は福島第1原発の廃炉にあたって、事故で原子炉内に溶け出た燃料デブリを冷却する過程で、日々発生している大量の放射性物質汚染水をALPSで浄化した処理水について、放射性物質のトリチウムだけは除去できないものの、いま政府が海洋放出を検討しているので、そのリスクに関して議論したいと思います。 まずは、以下の記事をご一読いただきたい:

 ◎海洋放出、10月中にも決定 福島第1原発処理水で政府
  日本経済新聞 2020/10/16
   https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65068910W0A011C2MM8000/

 2011年に炉心溶融事故を起こした福島第1原発では、原子炉の燃料デブリを冷却したり、雨水や地下水が入り込んだりすることで、高濃度放射性物質を含む汚染水が1日180トン発生しており、この汚染水を多核種除去設備(ALPS)という特殊な装置で大半の放射性物質を除去した処理水として、敷地内のタンク1000基に累積で約123万トンを保管しているという(2020年9月末時点?)。

 東電によると2022年10月にも敷地内のタンクが満杯になる見通しで、処分対策方法を決定してから2年程度の準備期間がかかるため、まさに「待ったなし」の状況なのだ。就任したばかりの菅義偉首相も、9月に現地を視察し、「できるだけ早く政府として責任を持って処分方針を決めたい」と発言しており、地元の福島県大熊町・双葉町も8月に、この原発敷地内にたまり続ける処理水タンクへの対応策の早急な決定を国に要望していた。

 ただ、この処理水にはALPS装置で技術的に取り除けない放射性物質のトリチウム(三重水素:3H)が残っているため、政府は有識者の検討会をのべ6年間にわたって開催し、処分方法を検討してきた結果、本年2月には、この処理水について、放射性物質濃度が基準値以下であることを前提として、海洋放出が「より確実に処分できる」との結論を発表した。政府の海洋放出決定は間近と思われるが、漁業関係者との調整のため10月中は難しいとの政府見解も報道されているようだ。

 実は、昨年10月の時点で、筆者は本ブログにおいて、松井大阪市長がこの処理水を大阪湾で受け入れる発言をされたことを受けて、大阪だけでなく全国の海で分担してはどうかとの提言をさせていただいたのだが・・

 ◎原発処理水のリスクが許容範囲なら全国で分担しよう!
  BLOGOS 山崎 毅(食の安全と安心)2019年10月01日
   https://blogos.com/article/407766/

 その後、この処理水をタンカーなどで運搬して海洋投棄するのは国際法違反とのご指摘があり、調べてみたところどうもその通りらしく、いまは全国の海でこの処理水を受け入れるのは難しそうだと考えているところだ(陸路で運搬して、全国の原発施設から海洋放出する道もないことはないが、時間もなく無理か?)。いずれにしても、大阪でも全国の海でも処理水を海洋放出して問題ないレベルのリスクであれば、本来福島の海に放出してもよいはずなので、そのリスクについて気になる不安要因をあげたうえで、筆者なりの回答を試みたので、ご一読いただきたい:



Q1:トリチウムが放射性物質である限り、大量に海洋投棄すると水産物などを介しての健康リスクが否定できないのでは?

A1:たしかにトリチウムが放射性物質である限り、トリチウムから放出される放射線(β線)により内部被ばくをすることの健康リスクは否定できません。プランクトンや水産物を介した食物連鎖により放射性物質が蓄積されると考えると、健康リスクを心配されることは十分理解できますし、リスクがゼロになることはないでしょう。しかし、放射性セシウム137と比較すると、トリチウムによる内部被ばく量は約700分の1と非常に弱く、許容範囲内の十分小さなリスクであると専門家は述べています。また、水産物へのトリチウムの蓄積の程度は、処理水の海洋放出後にモニタリングが可能ですので、継続的に監視することで解決する(検出される可能性はほぼない)と考えます。

Q2:トリチウムが放射性物質である限り、大量に海洋投棄するのは環境保全に反するのでは?

A2:たしかに環境保全NGOなども、トリチウム処理水の海洋放出に反対しており、環境への悪影響を懸念する声があるのは事実です。有毒な化学物質を大量に海洋投棄したことで、環境への甚大な悪影響をもたらした事件も過去に発生しており、環境リスクを慎重に評価する姿勢やSDGsを重視するのは国際的なコンセンサスでもあります。ただし、世界中の原発施設や核燃料再生施設においても、長年にわたって大量のトリチウム処理水が海洋放出されている中で、環境への悪影響が認められたという報告はないものと思います。もしトリチウム処理水の海洋放出と環境への悪影響の因果関係が科学的根拠をもって証明された場合には、当然環境保全のため、処理水の海洋放出を中止すべきでしょう。

Q3:政府/経産省がトリチウム処理水の海洋放出を決定するとのことですが、担当者はこの処理水を飲んでも平気なのでしょうか?

A3:担当者は、福島原発のトリチウム処理水を飲めないと思います。ALPS装置で大半の放射性物質は除去されていますが、トリチウムなどの放射性物質が残留しており、飲料水としては不適切です。処理水の海洋放出を許容範囲のリスクとしているのは、福島原発のタンクに溜められた大量の処理水でも、それよりはるかに大量の海水に希釈されるからです。トリチウムの濃度も海水に希釈されることでゼロと同じ(ごくごく微量)と考えてよいため、健康リスクも環境リスクも無視できると専門家は評価しています。

Q4:トリチウム水自体は問題ないものの、有機結合型のトリチウムが生体や水産物に蓄積することが問題だと聞きました。大丈夫なのでしょうか?

A4:おっしゃる通り、トリチウム水が生体内に取り込まれると約3~6%が有機結合型トリチウム(OBT:Organically bound tritium)に移行するとの報告があります。生物学的半減期もトリチウム水より長くなる(約10日間⇒約40日間~1年間)ようですので、その意味では確かに、より生体内に蓄積すると考えてよいでしょう。ただし、このOBTがどの程度蓄積したら、生体への悪影響が出る(たとえば発がんリスクが上昇など)かについては、とんでもなく大量の内部被ばくでない限り、自然からの内部被ばく以上の生態影響は起こらないとの実験データがあるとのことです(詳しくは、政府検討会での田内広先生の講演資料をご参照ください)。

Q5:ALPSでトリチウム以外の放射性物質は除去されたとのことですが、ストロンチウムなどすべての核種が完全に除去できていないと聞きました。大丈夫でしょうか?

A5:おっしゃるとおり、福島原発より回収した汚染水を多核種除去設備(ALPS)で浄化して、トリチウム以外の核種はほぼ除去できた状態でタンクに保管されているようですが、完全ではないようです。そのため、海洋放出という処分方法が決定されてから、約2年をかけてタンクに溜められている処理水に対して、ALPSによる再浄化や希釈をかけることで、確実に対象核種を基準値以下にして海洋放出に進む予定とのことです。ですので、海洋放出の段階ではトリチウム以外の核種に関する問題は解決するとのことです。

Q6:トリチウムの放射線は弱いとのことですが、どんなに低い放射線被ばく量でも発がんリスクはゼロにならない、すなわち「しきい値はない」と聞いたことがあります。本当に大丈夫でしょうか?

A6:おっしゃるとおり、どんなに低線量の放射線被ばくでも発がんリスクは無視できないという「直線しきい値無し仮説(Linear no-threshold hypothesis;LNT仮説)」という理論がありますので、トリチウムによる弱い放射線被ばくに関しても、できれば回避したいリスクだという考え方は理解できます。ただし、よく考えると我々は、自然界において大気中の水蒸気、雨水、海水、水道水にも含まれるトリチウムに常に被ばくしていると同時に、一般食品中の放射性カリウム(40K)なども含めて、年間2mSv程度の放射線被ばくを受けているので、そのようなバックグラウンド値に大きなバラツキがあると考えれば、ごくごく微量の海水由来のトリチウムによる内部被ばくを回避する必要性はないでしょう。

Q7:世界中の原発施設で海洋放出されているので問題ないとのことですが、実際にトリチウム処理水を海洋投棄した地域ではがん患者が多い、という疫学データがあると聞きました。本当なのでしょうか?

A7:トリチウム処理水の海洋放出をしている地域と海洋放出をまったくしていない地域で、がんの発症率を比較した場合に、明確にトリチウム処理水の年間放出量とがん発症率に因果関係があれば、それは大問題ですね。しかし、そのような疫学研究報告を我々は知りませんし、専門家の方々も現時点でトリチウム処理水の海洋放出量と地域住民のがん発症率に相関があったという信頼できる報告はないと評価しております。 もしそのような疫学データがあるとのことでしたら、本当にトリチウム処理水の年間海洋放出量と地域住民のがん発症率に明確な因果関係があったと、複数の根拠データをもって再現できているか(処理水放出量が2倍、4倍になると、がん発症率もパラレルに上昇しているか?)を、確認されたほうがよいと考えます。残念ですが、がん発症率の違う地域をあえてピックアップして、トリチウム処理水のせいでがんが増えた・・などと誤った結論を導かれる疫学論文もあるので要注意です。



 以上のようなトリチウム処理水のリスクに関する一問一答が、我々の開発した「スマート・リスクコミュニケーション」という手法の1例だ。すなわち、「確証バイアス」の要因となっている信念や仮説にいたった不安要因に共感した設問を投げかけたうえで、それぞれに対して学術的理解を与える科学的根拠をわかりやすく情報提供することで、消費者市民のリスクの理解につながるという手法だ。単なる「安全性に問題はない」という学術的説明のみで説得を試みるのではなく、市民の不安に寄り添う姿勢とともに、リスクに関する議論をすることで理解が深まるのが、リスクコミュニケーションのポイントであろう。

 もしトリチウム処理水の海洋放出において水産物や人体に対するリスクが無視できることが市民に理解されるようなら、最初のハードルをクリアしたことになるが、残念ながら福島の漁業関係者が風評被害を懸念される状態は解決したことにならない。しかし、この問題については消費者市民の意識をどうとらえるかが重要であり、漁業関係者(食品事業者)が風評被害を懸念するだけでは、むしろ状況が悪化すると考えるべきだ。

 消費者市民に対してトリチウム処理水海洋放出の健康リスクが十分小さいことを地道に伝えることは、「食の安心」の問題であり「食の安全」の問題ではない。「食の安全」の問題なら不特定多数の市民に伝える必要があるが、「食の安心」の問題は本来、心配している特定の市民にだけ回答すればよい問題だ。しかし、今回福島の漁業関係者がこの問題を「風評被害が懸念される」などとメディアの取材を受けて報道されると、不特定の消費者に対して本件があたかも「食の安全」の問題、すなわちトリチウム処理水が海洋放出されると福島の水産物が危険な食べ物かのように伝わってしまう。

 そこで、リスク管理責任者(経産省や東京電力)もだが、食品事業者としての漁業関係者も、この場合はトリチウム処理水の海洋放出が福島の水産物への悪影響はないものとして、リスクを十分理解する姿勢を示すことの方が、はるかに不特定多数の消費者の「食の安心」につながると考える。漁業関係者が「風評被害が心配だ」と報道されればされるほど、市民も余計に不安になるのだ。筆者がいつも指摘していることだが、「風評被害が心配されます!」というメディア報道が、最も市民の不安を煽ることになることに気づいていただきたい。漁業関係者も、市民の不安を煽って番組を盛り上げたいメディアに踊らされてはいけないのだ。

 消費者市民にとって、商品の品質に関して販売者が自信をもって売っていなければ、安心できないのは当然だ。そのためにも漁業関係者は、トリチウム処理水の海洋放出が水産物の安全性や品質に全く影響しないことを十分理解したうえで、自信をもって販売することが重要だ。そのうえで、それでも「安全性は大丈夫か?」というお問い合わせが顧客からきたときには、丁寧にお答えする姿勢が「食の安心」への対応として正解と言えるだろう。「風評被害だ!」とメディアに対して騒いだところで、お客様の気持ちは決して安心には向かわないし、むしろトリチウム処理水の問題を知らなかった市民まで、福島の水産物はどうも危なそうなので止めておこうとリスク回避されるのが落ちだ。

 以上、今回のブログでは福島第一原発のトリチウム処理水の海洋放出のリスクについて議論しました。SFSSでは、食の安全・安心にかかわるリスクコミュニケーションのあり方を議論するイベントを継続的に開催しており、どなたでもご参加いただけます。

 ◎食のリスクコミュニケーション・フォーラム2020 第3回 開催速報
  『低線量放射線被ばくのリスコミ~福島復興支援のために~』(9/26)
   http://www.nposfss.com/cat9/riscom2020_03.html

 ◎第2回 『健康食品のリスコミ~天然成分のリスクは?~ 』(8/30)開催速報
   http://www.nposfss.com/cat9/riscom2020_02.html

 ◎第1回 『ゲノム編集食品~新たな育種技術のリスコミ~』(6/28)活動報告
   http://www.nposfss.com/cat1/risc_2020_01.html

【文責:山崎 毅 info@nposfss.com